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2009年4月 8日 (水)

ことば

ヘモグロビン太郎って誰が言い出したのかね?

ご無沙汰しておりました。
青陰です。

またも生存を危ぶまれていたようなので、ブログを更新です。
最近は、言葉を用いて生きる人間というのは、もはや“そこ”には辿り着くことは出来なくなってしまったのではないか、
とかそんなことを考えたりしていました。
あとご飯を食べたりバイトしたり、依頼を受けて絵を描いたりしておりました。
それ一番最初に書けよ。

小説サクヤ
林すみとさんの小説サイト。
毎週土曜日更新で、新しい作品が読めます。
僕はトップ絵を担当させて頂きました。
マスコットキャラクターのサクヤちゃん(コノハナサクヤビメ)です。
小説サクヤ、のHP名のとおり。
コノハナサクヤビメは、僕たち人間が死を迎える生き物になったことに関わりがあるそうです。
詳しくは調べてくらはい。
なかなか創作意欲を刺激されるエピソードです。

   ***

先日ある方に、お前は漫画家を目指しているんだから、
誰しもが理解できるような、一般的な用法の言葉を選んで話さなければ駄目だ、と諭されました。
相手の理解力に期待して、言外のニュアンスを込めて話すな、っつーことですね。
確かに最近は言葉の面で楽をしているというか、
周りに理解力のある人が多いので、随分と乱暴に言葉を選んで喋っていたなぁ、と気付かされました。
今日の日記も「もはや“そこ”には~」とか書いてますしね。
こんなん分かりませんよね。

ただ、言葉ってヤツを用いている時点で、我々の相互理解というのは決定的な断絶をしていると思うんですよね。
自分の思ったまま、心のままを表現すること、これが出来るようで出来ない。
僕らの言葉って、食品サンプルみたいなものだと思うんです。
食品サンプルは、見た目は極限まで料理に似ていますし、
どういうものが出てくるか充分に理解できて、味とかも想像できる。
だから、どんな料理か、というのは伝えることが出来る。
でも、それ自体は食べられない。
なんかそういうものだと思うんですよ。
極限まで近い、別のもの。

あくまで、言葉って多くの人が共用しているツールでしかないんですよね。
それを使える人が多いから、使っている、というだけ。
だから、もっと分かり合えるなら言葉なんぞ使わなくてもいいんでしょう。
拳での語り合い、なんて言いますがアレも、人によっては言葉なんかよりもよほどしっかりと伝えられるんじゃないかと思うんです。
ただ、それで理解できる人が少ない。
だから、誰もが理解できる言葉を使うしかない。

でも、言葉って直感とか感性とか、そういうところから遠いところにあると思うんですよね。
なんというか、冷静に練り上げていかないと成立しないというか。
感性に対して、調理用手袋程度かも知れませんが、なんか一枚隔てて接していると思うんです。
実は絵もそういう側面があるんですが、技術的なものを用いれば用いるほど、
変換されたもの、という感覚が付きまとうんですよね。
僕は伊東岳彦先生、聖悠紀先生、西川伸司先生の絵を模写して基礎を築いたのですが、
「僕の頭の中の絵=僕の描いた絵」ではなく、
「僕の頭の中の絵≠僕の描いた絵≒伊東岳彦+聖悠紀+西川伸司」
となってしまているんではないか、と思ってしまう。
描き方が自分の中に出来ているから、その描き方で描いてしまうけども、
“描き方”でアウトプットしたものが自分の絵なのか?という。
本当の自分の絵というのはなんだろう?という。
話がズレましたが、要するに技術的に繰るものはどうしても技術に依(寄)ってしまい、
元々の伝えたいことからズレて行ってしまっているんじゃないかなぁ、とそう思うわけです。

コミュニケーションの根本が言葉に依存している以上、それを用いるのは仕方のないことではありますが、
言葉が絶対で、言葉それ自体に意味がある、と思うのは危険な気がします。
言葉の意味を信頼しすぎると、その言葉を発しただけで相手にその“意味”を伝えたと思ってしまうんじゃないでしょうか。
「がんばれ」は励ます意味、だけど鬱病の人には“がんばれ”の意味では伝わらない。
気持ちを伝えるのに、決まったパターンにするのは危険なんじゃないでしょうか。


Oebi0115

言葉自体には意味はない。

でも、

言葉にしようとすること、
そして、伝えようとすることには意味があるかもしれない。

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コメント

 言葉には人が意味や価値を投影するだけだから、
そのものを捕まえようとしても出来ないんですかね?

 とか言っちゃって、
 あー、自分でいやだ、もぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっと

 ぶ
 わ
 ぁ
 ぁ
 ぁ
 ぁ
 
 っと、いったらいいのに。
 這い出る目玉は三角形♪
 荒らしまがいでごめんねっ。

投稿: 波分妙斗 | 2009年4月 8日 (水) 22時11分

お久しぶりです。
職業柄いろいろ考えてしまいました。

コミュニケーションは、言葉の使い手=相手の存在があるからこそ言葉に意味が生まれるんじゃないでしょうか。
でも相手のことをよく知らない内は、言葉の一般的な意味を追うしかない。
本当にその人の言葉を理解するには時間がかかりそうです。

偉そうですみません。
でもいいきっかけになりました。

ちなみに、これが一番私にとって大事なことなんですが。
今日の絵からすごく元気をもらいました。
気が滅入っていたはずなのに。
ありがとうございます!

投稿: アオミドリーナ | 2009年4月 8日 (水) 23時40分

コメントありがとうございます。

>波分さん
文字だけで伝える、というのは難しいですね。
メールなんかしていると特にそれを感じます。
気持ちが乗っているような表現って、過激になりがちですし。
概念ですね。


>アオミドリーナさん
相手をよく知り、理解し、そこから言葉の理解も生まれる。
感服しました…コミュニケーションは、相手を知りたい、知って欲しいですからね。
そこが大事、ということに気付かせてくれてありがとう。

絵から元気を…!
とても嬉しいコメントです。
ありがとうございます。
実は、僕にとっても今回は絵が一番大事なのでした。
この絵を載せるために日記を書いていたら、
何だか考え過ぎな話になった、というだけの話なのです。

ちなみに、ブログの表示の関係で右側が切れてしまっています。
完全版はお絵かき掲示板、ないしはイラストギャラリーの下の方で見られますので、
興味がありましたらそちらで見てみてください。
まぁほとんど変わらないのですが。

投稿: 青陰 | 2009年4月10日 (金) 01時20分

自分が話している言葉を、「この人は何を言おうとしているのか?」という様な気持ちで自身の中で繰り返してみると新しい発見があったりなかったりしますよ。
話すという内容に限定してのことではありますが、後は間合いとかなんとか...支離滅裂で申し訳ありません。

投稿: 伊小木 | 2009年4月10日 (金) 08時42分

コメントありがとうございます。

>伊小木さん
会話の中で言葉を繰るのが、僕は一番好きですね。
相手との対話の中で、自分の言葉が作られていくというか、
話すことで自己を見つめ直すことが出来ている気がします。
また、言い合いになるとニガテですね。
相手と一緒に積み重ねていくことで作り上げられるというか…。
ゲームは対戦よりも協力プレイ。

言葉や思考は自分だけでやっているとどうしても変なところにはまりこんでしまって…。
冷静に自分を見るもまた、底冷えのする闇を覗くが如く。
自分こそ、正当に評価してあげられない僕がいます。
穴に向かわぬ自分を見つけるために、言葉を交わす毎日です。

投稿: 青陰琢磨 | 2009年4月10日 (金) 18時39分

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